書いているうちに書きたいことが移ろってまともな文章が書けない

かつては人権についてめちゃくちゃアンテナ張っていた気がして

言葉回しに気を遣っていた気がする

それが余裕を失って一切できなくなったっぽい

見返すと「とある属性の人の気分を害したかも知れないな」と思うことが増えた

それをこの機会にいっぺんに謝罪するのは お手軽に贖罪してしまう気がするのでしないけれど

誤解があったらそれを解きたいとは思うのは人の常

今まで揉めてきた人々は俺のこのブログを読んでないだろうけれど

もし読んでたらいいなと思って書き綴った次第

大学時代にまで遡るくらい俺は不義理をしてきたけれど

これからは変わって なるべく君たちへの不快感を逓減したいと願ってやまない

 

俺はどう変わってしまったのか

多分みたままだとは思うんだけれど

俺は交代人格時代と違って「この時はこういうことを言えばいい」といった細やかな気遣いができなくなった

結果その場しのぎの怪しい言葉に頼るようになってしまって

後先考えない言動が増えたんだと思う

人生設計にもそれは表れていて

自分の仕事の稼働率が減っていっているのにそれを対策できなくてもがいている

中長期的な目線を養えなかったのは明らかに俺の幼少期に原因はある

目先のことにしがみつかなきゃ利益を取りこぼす そんな幼少期だった

我慢できる子供がのちの将来 成功を手に掴む傾向が強いことは有名な研究で明らかだ

俺は「我慢できない」子供だった

そんな子供が堪え性のないまま育てば 中長期的目線を持たないまま場当たり的に動くことは想像に難くないし 実際俺がそうなっている

俺のこれからの課題は そういった中長期的な目線を持って 実践して 計画的に動けるようになることだと思う

習い性になっているこの近視眼的行動指針は残念ながらそう簡単に変わるものではないと思う

自分の快不快に従ってご褒美を時間的に遠くに置いてやることができないのは 今後も大きくは変わらないと思う

思考ステップも短いし 結論に易々と飛びついてしまう そんなやつの長考は休むに似ているんだ

どうすれば思考ステップを長くできるか それも考えなくてはならない

人格陶冶に邁進しているけれど これは思考の癖も変えなくてはならない困難な問題だと言える

 

いけないな 人のことを考えるはずが自分のことばかりになっている

これがきっと嫌われる原因になっているんだろう 思考のステップが短いのは如実に現れてしまっている

どうすれば長期的な目線を持てるようになるのか

目標を決めてもそこにワンステップでたどり着けるような気がしてしまう

それでは目標ではないんだよな

悩ましい 悩んでいても解決しないからもがくしかない

 

今後の人間関係

アライさん界隈は続けられないような窮地に立っている

先刻もスペースで蹴られたり ブロックされたりを繰り返していた

どうしても誰ともソリが合わないのである

いっそ界隈離脱して 本垢に戻ろうかなと考えている

見込みのないところで努力を続けても 何も報われる蓋然性は低い

どうすればいいかを考えたら界隈離脱が丸くなった

なんだかんだ惰性で居続ける未来が見えるものの 顔を出す頻度は間違いなく下がるだろうなと思う

何がいけなかったのか 本気でわからないけれど

おそらく俺の性格人格の欠陥がもたらしたものなのだろう

改善する誓いを立てたはいいものの改善の方法は全く浮かばない

人に言われるがままに従っている これも主体性や思考力の欠如と言えそう

だんだん自分の欠点を論うだけの自傷文書になったな

いっそのこと「こいつらと俺が合わないだけ」と開き直れたらかなり楽なのに

それができないのはどこかに「まだこの子と関わりを持てる」という悪い意味での諦めの悪さがあるからだろう

実際問題今まで破綻した関係の人々には復縁のチャンスを与えられなかったのにそう思えるのは今考えてみると不思議でならない

惰性に逆らえない 人に執着し 剰え反省とフィードバックをしない 楽な方に流れる

かなり身も蓋もない文章になってしまった どうしたもんかな

 

大人になれない俺らの泣き言を一つ聞いてくれ

一つどころではなさそう

書いてるとだんだんとつらくなって もはや何もできない状態になる

幸いにもつらいだけでメンタルが凹むほどにはなっていないのだが

みなし健常な状態での自己省察をしてみても

なおもポジティブなものが出てこないのはいっそ変質として清々しい

周りは俺を嫌いで俺も俺を嫌いになったら一体誰が得するっていうんだ?

だんだん悩むのが馬鹿馬鹿しくなってきた

俺だけは俺を好きでいなかったら本当に人離れが加速してしまう

ここぞというときに不良品を売りつけるような真似はしたくない

空元気ではないけど なんだか段々書いているうちに吹っ切れてきた

俺を嫌うのは もう仕方ない 君は俺を嫌い それで仕方ない そうなってしまったんだから仕方ない

人間との接触回数が大きいから それだけ俺を嫌う人間とも当たるわけである

別にそれは確率の問題で 確率の関数はいじれるかも知れないけれど 嫌われる時はどうしたったって嫌われるんだ それは仕方ない

ではなぜ嫌われたのか?これは再現性も担保できないし答え合わせもできないから 想像するしかない

多分 俺の性格の悪さなんだろうけれど これに押し込めるのは思考停止に近い気もする

何が彼彼女にとって「悪い」ものだったのか思いを馳せてみたい

俺の性質 俺自身が把握していないことに今気づいてちょっと落ち込む

言えるのは自称だけど

・なんだかんだ少し勉強くらいはできる

・学びたいという意欲はある

・興味が広い

・人に懐きやすい

・人のことを知りたがる

・自分の防御壁を持っていない

などがありそう 前半あんまり関係なさそう

人に懐きやすいの点はおそらく遠慮のないもの言いに現れていそう

こないだ通話した人から「髭さんはストレートにズバズバ言う」と言われた

その人はかなりオブラートに包む方なので たまに何を言いたいのかわからないことがある

俺はそれが嫌なので誤解のある言い回しを避けて思った通り知ってる通りの言葉で相手にぶつける それが誤解を招いているのだから世話ないし皮肉な話だ

で 人によってはそれが嫌なこともあるらしい

言い回しの問題は意識すればなんとか矯正できるかも知れないから直していく

直接的な言い回しを避けると どういった言い方をすれば相手に伝わるか考えなければならない

これがすでに長的ステップの思考を必要とすることがわかる

唐突だが俺は京都の人にすごく嫌われる

京都の人々は奥ゆかしいのでもって回った言い方をして相手に察させる察し察されの文化があると聞く

その人たちからしてみると俺の言い方は本当に不躾で なんとも品がないように見えるのだろう

それに「こちらは我慢しているのに髭だけズケズケ言いやがって」とかも思っているそうだ 実際聞いたので間違いない

俺はそれを聞いて「なるほどなぁ それは申し訳ない」とは思ったが

まさかそれが効いててこんなに不利益を被るとは思っていなかったのは事実である

直接的な言い回しの何がいけないかを考えてみる

思うに 自分で一択の選択肢を選んでいるから 誤解されたら言い逃れのしようがないのはある

「Aだ」と言ったらAになるので Bにならない

「Aかも知れない」と言えば外しても誤解が生まれても修正がきく

でも俺はこの言い方はずるい気がする 言い逃れをするのは自分の言葉に責任を持っていない気がする

自分で思ったこと そう感じたことは自分の中で「そう」なのであり

実際の様子とは違っていてもそう伝えるのが誠実というものだと思う

まっすぐ歪みなく伝えるなんてバイアスが前提になっているんだから土台無理な話だし

正確に伝わることは期待してはいけない

だからこそ自分がボトルネックになってはいけないのであり そこで言葉に小細工を弄することなど言語道断と言える

誤解を招く言い方は修正すべきだろうが 決して言いたいことを曲げるようなことはしてはいけないと思う それは相手にも自分にも不誠実だと思う

思ったこと 事実 感想などは言葉を歪めてはいけない

忖度して相手にとって気持ちのいい言葉だけを吐くのだったら多分今のコンピュータの方が性能がいい

やっぱ気持ちよな 感情よな

俺は理性の人間じゃないことを改めて思い知ったな

こんな人間が数学やコンピュータサイエンスの徒を自称するのはなんだか滑稽な気はする

でも俺はそれが好きなので 勉強するんだけどね

 

人に誤解されることは俺が「他に選択肢のない」発言をするから進退窮まることがわかった

そう言ったならお前はこう思っているんだろうといったような推測の裏打ちも相手に与えることになる 相手の中ではそれが正しいのだから それが誤解だとしても躱す術はない

これが俺の悪評が大体の人間の間で固まる大きな理由と言ってもいいかも知れない

断定ができないのが悔しい 科学ならまだ観察とか定量化とかで議論できるのにそれができないのはもどかしい気持ちになる

俺の癖は色々ある その癖を「悪いもの」と捉える人が多くなるのはやはりこの「断定」にあると言って差し支えないだろうな

逃げ道を自分で絶ってるんだからそれはそうなる さっき言ったけど言葉は自分の手前で弄するのは許されない ならそういう信念の下なら甘んじて「逃げ道がない」道を歩むしかない

二者択一 排他的論理和だ 「言葉を裏切って人に忖度する」か「逃げ道がない道を突き進む」かのどっちかだ

 

そういえば俺は「0か1かの思考」とも言われた

これも極端な性格として嫌われる遠因になっていそうではある

だが 他の選択肢を検討してもさっぱり浮かばないのがある

結果として短期的ステップ思考も手伝って「これかそれ」の思考に陥ってしまうのだと思う

短慮と極端思考は同じコインの裏表なのかも知れない

この辺りは人に聞いてみても「ぼかされる」

ぼかすのが礼儀というか 人の内面に踏み込むことだから直接に言わない方がいいということなんだろうな

俺に助言を誰も求めなくなった理由がちょっとだけわかった気がする

 

めんどくさくなってきた

考えるのが面倒くさいってこれもうマジで科学者の資質なしじゃんって思うけど面倒なものは面倒なのでほっぱらかす

大体さぁ みんないつも俺のことを嫌うけど自分にその不和の原因を求めない姿勢ってどうなのよ?

君が俺を嫌いってことはさ 君にも俺を嫌う原因が含まれているんだからおあいこでしょ?って思うわ

文章まともに書けない俺に言われたくないだろうけれどさ

なんでこうなったかっていう反省を俺だけ求められて君は「はいさよなら」でおしまいで済ますとかおかしいだろ不公平だろ

君も考えろ 君も悩め 君も時間を盗まれてくれ

益もない自己省察に時間を費やす空虚さを君も味わえ

なんてね ブログだから書けることだ

Twitterで言ったら袋叩きだろうなぁ

まぁね 俺はこういう性格だし なんでいちいち不和と別れで悩まなきゃいけないんだとは思う

君も悩む必要はなくて 君も切って終わりで済むなら俺もそれでおしまいにしたい

でもそうはできないのが俺の性分なんだろうね

頑張って報われることはないが 報われた人々は押し並べて頑張っている

頑張るしかないね やらなきゃいけないことをやるのはいつだって必要な技術だしさ

 

さて書き散らかしたが

この中から俺の問題点を洗うことはまだできていない気がする

継続的にやって 散発的に発見がなされるまでは自分の中で温めていかないといけないということなんだろうな

長くて長くて嫌になる

 

そんじゃこれくらいにしようかね

ばいちゃ

思考の一息を長くする訓練

呼吸は吸って吐いてを繰り返している

これのアナロジーとして 思考にも「呼吸」があるものとみなす

インプットを「吸気」アウトプットを「呼気」とするのだ

それのインターバルを長くする訓練をしたいとも思っている

俺は残念ながら(そして遺憾ながら)思考の一呼吸がとても短い自覚をした

思ったことを思いとどめて思案したり保留して考えたり組み合わせて考えることを極端に不得手としている

思考の一息が短いのはブログの文章の一文一文が短いことからもわかると思う

このブログは思いついたことをただひたすら書き連ねているだけだ

だから少しでもブログの見栄えをカッコつけたかったり

安易に結論に飛びつかないように検討の時間を設けたりして

発想に従って飛びついたりしないように我慢していきたい

アイディアマンではないのはもうわかってしまったから

そうでないなりの戦略を立てて生きていきたいね

ばいちゃ

どうしても嫌われる

今日はなんの話をしようかね

そうだ 嫌われる話でもしようか

俺はどうやら嫌われやすい

曰く「人格が破綻している」「していいこと悪いことの区別がつかない」etcetc

どれもこれも自分には自覚がなかったから驚いたもんだ

そんなこんなでいろんな連中が俺から離れていった

それに思い悩みもしたが

最近は「そんなことに悩んでいてもキリがない」と思うようになってしまった

そんなことより「今大事にしてくれる人」を大事にした方がよほどいいのではないかって

離反していった人には「何開き直ってるんだ」って言われるかもしれないけれど

俺はこれを貫き通そうと思っている

もちろん治すべきところは治していく

それでいいんじゃないかな?

ばいちゃ

病識の比較ほど意味のないものはない

病識とは

病識とは自分が持っている病に対する認識のことである

これを比較してもあんまり意味はないというのが今回の主題

そもそも病識は個々人の中で生えるものであり他人に共有はできても他人に実感させることは不可能である

故に他人を指差して「その病識はおかしい」だの「その認識は誤っている」だのの指摘は的を射ない

界隈で散見される「この人は病識がおかしい」という発言は そもそも的外れなのである

病識掴みのコツ

ここからは自分の病識をはっきりと確立させるためのコツらしきものを教えたい

まずは自分の生活に発生している「困り」を日記に書いてみることである 日記の習慣がない人はまずは日記の習慣を立たせてみよう 最初は10文字でも構わない

困っていることを言葉にするのが難しいこともあるけれど 直接生えている困りごとを言語化するのはさほど難しくないかもしれない

困りを言語化できたらそれで完了である

自己認識を始めるのはまずは自分が認識している範囲のことを言語化することである

そうすれば自分がどのような性質を持っているのか 朧げながらにわかってくると思う

よく発達障害界隈で「自分はASDだから」「自分はADHDだから」という言葉で始まって自分の性質を述べる人がいるが 俺に言わせるとそれは因果が逆転していると思う

そういう人 またはこの言葉で自分に思い当たる節がある人は まずは自分が何に困っているか言語化してみるのをお勧めする

病識は勝手には生えてこない だからこそ自分で何に接しているか 具に観察する必要がある

 

今日はここまでにしておこうかな

ばいちゃ

言語化することの重要性

思考には形がない それに形を与えてやるのが言語化である

つらがってるフレンズには俺はよく言語化の訓練を提案している

でもこれってみんながみんな持ってる能力というわけじゃない

生まれながらにしてものことを喋ることができるフレンズは限られているからだ

みんな誰しも言葉は後天的に獲得したに違いない

そこでさらに自分の持つ考えや感情を言葉にするなんてのはその場から一歩も二歩も踏み出すような勇気と実践が必要になる

よく「メンタル強い人はモヤモヤを言葉にしがち」っていうけれど アレは因果が逆だと思っている

「モヤモヤを言葉にできるからメンタルが強く保てる」んだと思う

そうなるにはどうしたら良いか

言語化の訓練を積むしかないとなる

日記でもいいからブログでもいいから何かしら考えたことや思ったことを文字にして書き連ねてみることを試してみるといい

最近の俺なんかは「どうしても周りから人が離れていく」と感じていた

原因はいまだに不明だが「離れていく連中はこっちから追いかけても仕方がない」という結論に至ってしまった

やむなく諦めたが 不満感や理不尽感は消えていないままである

自分の納得を心の底から得ていないからであろう

言語化するとこのようにある程度「筋道」が立てられる

今までのように「正体不明の不快感」としか言いようがなかったものに対して 幾分かの輪郭を与えることができる

これだけでも問題着手に取り掛かりやすくなるのではなかろうか

言語化のすすめを書いたところで 今日はおしまい

ばいちゃ

コンテンツがなくても生きていける

なんだか自分に言い聞かせているみたいだ

さっきの記事の続きだけど

コンテンツ性がなくともフレンズは人間は生きていけるんだと思う

なくて死ぬわけじゃない

目立たないと思ってても君の中に光る個性は確かにあるし

それが自分にとっては取るに足りないモノであっても

君の価値を認めるフレンズは必ずどこかにいる

「やりたくてやってるわけじゃない」なら尚更やめてほしい

「俺が目立たなくなるからそのコンテンツを取り下げろ」と言いたいわけじゃない

いうならば「君がその袋小路に陥って本来の輝きを失うのを見たくない」というのが本音だ

ODや自傷などでかまってもらいたいわけではないのは理解している

でもそれが本意でないなら 少しでもやめて欲しいなと思ってしまう俺がいる

なんだろうな言葉まとまらないな

少しでも自分の行為が生産性に寄与するなら(しなくても)止める権利は俺にはないけど

でも君の人生がくすむのは俺は見たくない

わがままって言ったらそうだけどね

ばいちゃ

コンテンツ性のない自分の人生について

DIDも持っててきょうだいがバリエーション豊かで何がコンテンツ性の無いだふざくんなと思ったかもしれないけど自分の主観ではそう思っている

比較主義者じゃないが周りのアライさんに比べてつらいことは少ないしODも自傷もやってない

そんな中で俺はやっぱりコンテンツ性が無いなと思うに至った

取り柄はある でもやっぱり人を集めるには至らない

持ち前のポジティブ根性論で翻せばこれは「他人と当たり障りないやり取りができる」ということにもなる

「コンテンツ性」が前面に押し出されていると人はフレンズはそれを目立つ「モノ」として扱ってしまう

それがないというのは 幸せなことなのかもしれない

日常的なフレンズと 日常的なやり取りで平和に暮らせることの証

これはこれで ありがたいモノなのかもしれない

贅沢は言っちゃいけないよな

そんなわけで今日は終わり

ばいちゃ