文章の力と考える力について

よ 久々に短期スパンで更新してみた 今日語りたいのは文章の力と考える力だ 言うまでもなく俺はこれらの力が足りない 毛はよくやっていると思う 毛はすごい 彼奴は言語力に極振りされた思考を持ってるからブログを書くのが本当に上手い

脱線したから話を戻すと ようはこれらの力って連関しているよねっていう話をしたかった 文章の力は考える力と連関している それは以下の観察によるものだ

文章には書くやつと読むやつがいるその繋がりが担保されるように書くやつは調整しなきゃいけないし 読むやつは一生懸命読まなくちゃいけない 今日は書く側の視点に絞って書く

文章には目的がある 日記として自分に読ませるやつ 公開して他人に読ませるやつ 特定の誰かに一方的に送る私信 誰かたちに向けたメッセージ どれを取っても一つ言えることは「読まれる」ことを意識していることだ 読めない文章には意味がない だから読める文章にする必要がある ここに文章力の鍵があると思っている

読める文章は読める そこに書いてあることを読み取って意味を拾える だから表現や語彙を潤沢に用意しておくのは望ましいことであると考えている 言葉の種類が多くなればそれだけ拾ってもらいやすくなるし 細かな違いを語彙の差で表現することもできるからだ 語彙は大事 足りないと思ったら辞書を読んで補うとかもできるから積極的に辞書を活用して欲しい 紙の辞書なんかおすすめだ 紙の辞書は旅ができる 目的の言葉を調べるのに他の言葉に寄り道して調べることもできるからだ

しかしおそらく語彙力だけが問題ではない もちろん語彙量が多ければ豊かな文章に見えるし それだけで一目置かれることもあるだろう しかしそこだけが問題ではない

「文章に目的がある」と上に書いた まさしくその「目的」こそが重要で 何を伝えたいのかを考える必要があるわけだ 俺のこの文章は「考えることと文章を書くことは重要だ」と伝えたい上に「それを養うにはどうしたらいいか」をも載せたいと考えている それが伝わるように書いているつもりだ 伝わっていたら幸いであることよ

「目的」とは何か この文章なら「考えることと文章を書くことは重要だ」ということを広く人に伝えたいとなる いわば目標とも言える 書いて何をしたいのか意識をする そのための補強を本文中でやっていることになる 目的とはいわば伝えるための前準備とさえ言えるのではないか

文章を書くのは大抵の人には難しく感じているだろうが その原因は明確で「目的」がないからだと言える 目的の他にも「結論は何か」を意識しないと中身がブレる 目的と結論をしっかり意識して書けば とりあえずはまとまった文章にはなると考えている

君は何を書きたい?それを紙に書き出して 文で補強すればとりあえずは文章が書けるはずだ

文章を書くのは難しいが 最初のとっかかりは難しくない 書きたいことと目的と結論を用意してやり あとは文で補強するだけだからだ 最初の一歩は日記からでいいと思う その日あったことをつらつら書き述べているだけで格好のついた文章にはなる さらには目的意識を持って例えば「この日あったことを整理して後日の自分が読んだ時に情景が思い浮かぶようにしたい」とかでもいいだろう

まずは目的と結論を用意して書くことだ そうすれば文章は下手でも書けるものだと思う 俺がそうなっているように

後述する思考力の問題にも関わってくるが日記はいい訓練になると思う 感じたことや思ったことを自分なりに素直に書くだけで良いのだから 誰かに見られる恐れがない日記ならば自由に書ける ただし人間は自由すぎると選択力が落ちることが実証されているらしいので あんまり自由すぎて困るときはお題を決めて書けばいい 例えば「今日あったこと」でいっぱいいっぱいになってしまうなら「今日あった嬉しいこと」でもいい 絞って書くと 意外にも書けるものである

ところで文章を書く力は 目的によっても決まってくる 日記なら日記なりの文章力の鍛え方があるし 論文なら論文なりの鍛え方がある 自分がどのような文章を書くのかをはっきりと意識しながら 到達点を予測して逆算して訓練するといいと思う 俺は論文を書いたときはそのようにして書いた 到底いわゆる論文らしい論文ではなかったが教授には褒められた それは余談

日記は書ける 論文は書ける 手紙も書ける ブログも書ける 君がそうなれたらいいな

文章力編が長くなった 今度は思考力 とりわけ言語的思考力に関する事柄だ 今度は抽象的になるから肩の力を抜いて読んでほしい いや 俺のブログで肩肘張るなんてことはしないと思うが念のため

言語的思考力は言語で思考する力のことを指す 言葉を使って思考する つまり俺が今やっていることだ 他にも論理的推論や演繹なども言語的思考力に含まれる 論理は言葉の最たるものだと思う 「論」という言葉自体に「言葉のつながり」という意味があるからだ 論理とはその決まりや法則のこと だから「論理的だ」という形容詞にはいろんなものが当てはまり得る 言葉がつながっていればいいのだから

よくインテリが「それは論理的でない」という表現をするステレオタイプなシーンがあるけれど俺に言わせると言葉がつながって妥当ならそれは論理的帰結なのだからそんな怒んなよって思う 論理的の対極は感情的と言われがちだけどそれは俺は違うと思ってて全く違う土俵の事柄だと思っている 「感情論も論のうち」って言葉を俺のきょうだいが言ってたけれど全くその通りで 感情的に発せられた言葉がつながっているならそれは感情的であり論理的だと思う

論理に言葉を割きすぎた 言語的思考力は言語を使って思考する力のことだった それは論理を土台にして積み上がった一種の構築物であると感じる 「論理的」の射程はさっきも言った通りに割と広い 形式論理でもない限り 論理の射程はかなり広い そこには君独自の論理も含まれているだろう 言葉をつなげる営為においては君は自由だからだ

言語的思考力は「言葉をつなげていく連想ゲーム」に近いと思う 連想ゲームそのものではつながりが飛躍することもあるけれど 言葉を妥当につなげていくとそれなりに飛躍の少ないものにはなる それが言語的思考だと思う

人間には事象を完璧に捉える能力がない 4次元時空間上の物体を観察することを例にとってしても その全ての側面を一度に同時に正確に把握することができない 故に人間は事象を完璧には捉えられないとなる つまりは人間は事象の一側面をぶっかいて自分の中に取り込んでいるにすぎないのである

話は戻って 言語的思考力は捉え切った事象の中でさらにどれを描き出すかに焦点を当てたものだと思う 更なる捨象を行う そうして行く末に出来上がるものが文章なのではないかなという感じ

文章力と違って言語的思考力は大変鍛えづらいものだと思う 言語的思考そのものが意識して行われる思考ではない部分もあるからだ 「自覚は言語化」って俺は常日頃言っているけれど それに表れるように 思考には非言語と言語に分かれるものと 無意識と意識に分かれるものがあると思っている 無意識の言語化は意識されないのでわからないためなんとも言えないが そこから意識の領域内に持ってくることは可能だと思う

普段はスルーしがちな景色を眺めて「これは木だ」「これは鳥だ」と具に内部言語で呟くのは良い選択肢だと思う 観察文だけを述べるのではなく さらに発展して「昨夜の雨で木々の葉っぱがしずくを湛えている」と表現するように持っていくのもいいだろう まだ観察文の域を出ないからさらに発展して「鳥たちが低く飛んでいるということは 餌の虫が低く飛んでいるのだろうか」 とか「木々の葉っぱが濡れているのは昨夜の雨の影響だろうか」などと考えるのも論理的思考につながっていいと思う

言語的思考は普段スルーしている自分への刺激とその反応を自覚に引き寄せる力も持っている 上にも書いたように日記は自覚の塊だ 感じたこと思ったことを書くというのはとりもなおさず「受けた刺激に対する反応を言語化」していることになる 刺激の反芻とその反応の回顧で日記は書けると思っている 逆に言えば 自覚がなければ日記は書けないと思う そういう意味で目的と結論を持ってくるための材料が自覚になるのかなと思うのだな

自覚 俺は言語的思考で考えて引き寄せてるけれど 自覚には非言語的なものも当然あって それでもって他の技能を磨くということもできるはずで 実際にアスリートなんかはそうしてると思っている プロの数学者なんかも自覚してやっていってると思う

ここでは言語的自覚にさらに話を絞っていく 意識の中に言語的思考を持ってくることで自覚が生まれるという話を書いたが さらにもう一段何かあると思っていて それがなんなのかを掴めないでいる これは俺の自覚観の問題で もうちょい鍛える必要があるということの証拠だと思っている 鍛錬するから見ててくれよなー

ただ何かあるとすればそれは「気づき」の連鎖かもしれなくて それをもたらすきっかけになることは他人からの助言であるかもしれないし 自分の観察の結果であるかもしれない 人間は全部をわかれない わかれないからもがいてわかっていく その営みを重ねて成長するのが人間なんじゃないかなと思うわけね

俺らしくない文章の上になかなか長くなったが ここまで読んでくれてありがとうな まとまってない文章を晒すのは恥ずかしさもあるけれどある種の爽快感もあるな 本当読んでくれてありがとう 助かる

ばいちゃ