意見の形成と考える力について

表題は俺らしからぬガッチガチな物だけど中身は今までの俺なのでゆっくり構えず気軽に聞いてくれよな

最近トラブった 喧嘩したわけじゃない とりあえずトラブった 関係者は暗い気持ちになったけれど起きてしまったものはしょうがない 時間が解決するのを待つしかない

で 本題

トラブルの根幹でもある事案 意見の形成だ

「意見」とは ググった結果によると「ある問題についての見解 考え」とある

つまりは意見は思考の結果というようになる 意見の形成とは思考の結果だ

ここでとある知人による意見についての考えを述べたい

「考えることは生きること」「反論がないのは怖い」「意見を形成するのは必須」

ちょっと特定を避けるために表現を歪めてあるけれど 大体はこんな感じの考えだった

ここで俺は意見というものに対して持論を語りたい

意見を述べるというのはとりもなおさず「考えること」を必要とする 考えなしでは自分の意見などは生れようはずもない

この「考えること」というのが曲者だと思っている

「考えること」には「言葉」を必要とする だから言葉を操れない 言葉を知らない人間にとってはこれは非常に難しいものになってしまう

俺自身も言葉が不自由な部類に入る だから考えを述べるのにもかなり時間がかかったり うまく表現できなかったりすることもある このブログ読んでると感じるだろ もどかしさを覚えるだろ そのもどかしさはほとんど俺が感じているものと一緒だと思ってくれていい 俺ももがいている

だから 意見を持たない者たちの考えとか 行動の理由がわかる気がする時がある

「考えることは生きること」という考えだけれど 俺はこれに対して反論したい

中には言葉の関係の不都合で「文字だけで考えることが満足にできない」連中もいるということを知っておいてほしい

そんな連中にとっては感情を表現する手段が「すでに言葉によって表現されている事柄」を選んで自分の主張に替えることしか許されていない 誰が許す許さないではなく これは宿命みたいなものだと思っている

自分の感情を表現できないから その感情に近い表現を見ると たとえ的確に表現できていなかったとしてもそいつは「その言葉こそが自分の感情を的確に説明している」と勘違いしてしまってその言葉を選んでしまう 俺が考えるときに「これが答えっぽい」と飛びついてしまうのに似ているな まさにそれなんだ バカの考え休むに似たりという言葉があるけれど 俺に関してはそれが当てはまってしまっている

付和雷同は意見を持たない者ではなく 言葉を持たない者にもたらされた逃げ道なのだと思う

「意見を形成するのは必須」というのもわかる だけれどさっき述べたことと同じように 言葉を持たない奴らにはそれはできないんだ 俺はかろうじてこのように意見を文章に変換できている でもそれすらもできない奴が世の中にはごまんといる 意見を言わない奴は好き好んで言わないわけじゃない 「言えない」こともあり得るんだ

感情を言葉にする訓練を怠ったとか そういうのではなく たまたまそれでいても生きてこれてしまったからだと思う 感情はこの文字だけの世界においては文字のみでしか伝えることはできない

文字を使って何かを伝える必要に駆られてこなかったから 文字で感情を伝えられなくなってしまったのだろうと思う

そしてそれは必ずしも悪いことではない と俺は思う 文字でのやり取りが通貨になっている世界ではそれは悪になるのだろう でもこの世の中 文字だけのやり取りでは成立していない

身振り手振りや表情の微妙な差異でやり取りする世界の方が圧倒的だ

でもネットではそうではないのはわかる

現代ではネットが発達してきて リアルと並び立とうとしている

だから文字でのやり取りが価値を持つようになったのだろう

そのため意見を形成することの価値も大きくなってきた

感情を言葉にすることは大切だという価値観が台頭してきたのだ

でも俺は「文字だけの世界では言葉を持たない奴ら」のことを擁護したいと思う

だってこいつらは 文字だけの世界で今まで生きてこなかったから これから生きようとする奴らだから

だから 言葉を持たない奴らでも 生きていていい 存在していていい となる価値観も生まれてほしいと思う

ネットの世界は文字だらけだ 文字が優勢で言葉も文字だけだ 文字だけの表現はリアルの無限に見える選択肢を持つ世界に比べて非常に狭い 書いてあることだけしか汲み取れないからだ

俺も難儀している どう書けば伝わるのかとか どういう言葉が的確なのか とか 考えるだけでかなり頭を使う 前の記事でも書いたけれど 『なんで』を意識するだけで頭が疲れてしまう 俺は考えるのに向いてないと感じる 情けない話だとも思う

でも 俺みたいなやつでも この世界で生きていていいという承認は欲しいと感じる

わがままかもしれないが 俺だってこの世界で人と繋がりたいし 知りたいし 友達になりたいと思う 昔はそうじゃなかったけれど 今ではそう思っている

最後になったけど「反論がないのは怖い」ということ

例の知人はそう言っていたけれど これも別に怖がることじゃないと思っている

反論がないのは俺が考える限りだと「反論が思いつかない」か「その意見がその場所では絶対的に正しい正論である」かの二択だと思っている

反論がない状態が進むと先鋭化してしまって そいつが独裁者であるかのように振る舞えてしまえるのがあり得ると知人は言う

必ずしもそうじゃないと俺は思う その場の意見が絶対的に正しいというのはあり得る

だからといって意見者が独裁者になるとは考えづらい

さっきも書いた通りに 意見を形成するには考えが必要になり そのためには言葉として外の世界に出す必要がある

それができなければ その空間で反論が出てこないのは当たり前だ

もし反論が欲しいというのであればその空間の中の構成員の一人一人が自分の言葉で意見を述べられるようにならなければならないことになるが それはやはり酷な話だと思う

だって奴らは文字で言葉を述べる必要がなかったから だから述べることができない

それをいきなり「意見を述べろ」と言われても すぐにササっとかけるやつなんかほとんどいないだろう よくて居たとしても 的外れな意見になるに違いない

反論が欲しいと思うなら 自分が働きかけて相手の感情を代筆してやるくらいのことをしなければ難しいかもしれない

でもそれだって「誘導尋問で得られた意見だ」と言われたら崩壊してしまう

反論を欲しがるのは 俺はその空間においては 難しいものだな と思うのだ

以上をなんとかまとめれば考える力は文字の言葉の力と訳し直せるだろう

文字言葉だけの世界で生きていくには 同情や共感の他にも やっぱり自分自身だけの力で感情や考えを言葉にして吐き出すしか手段がないように見える

これは茨の道に思える 今までやってこなかったことをやるわけだから その苦しみは何物にも代えられないだろう

俺が講じている対策には二つある

「人格間のノートやダイレクトメッセージにその日の気分をなるべく詳しく言葉にして書き込む」「考えるときに『なんで』を意識しそれを言葉にするよう努力する」

前者は誰にでもできることではない やろうと思うならみんなの場合は日記に書き込んで自問自答するのがいいかなと思う

後者はおそらくほとんど誰にでもできるかなと思う 些細な日常の何かに「なんで」を付加してその答えを自分で導き出すとかをやってみると 何かを言葉にする能力が養われるように感じている

あと何よりも大切なのは「文字の言葉にして表現することを要求される場所に身を置く」ことだろうと思う

これはネットで生きていればいずれぶち当たるのではないかなと考えている

必要に駆られれば人間は身につけようとするので

 

まとめると いやまとまってないかもだけど

・考えることが大事というのは俺は同意する

・意見を述べるには多くの言葉が必要

・感情や考えを言葉にして吐き出すにはたくさんの訓練がいる

・それをできない奴がいる

・できない奴はそもそも文字で何かを述べる必要がなかったからだ

・しかし文字で何かを述べられなくても生きていていい

・上の通り反論はできるやつでないとできない

・考える力は言葉の力

・なるべく言葉の力を鍛えるけれど限界はありそう

 

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ばいちゃ